暑いけど長袖は着てられる

  • 腐れ教授の迷(名)言シリーズその1

騒がしい教室の生徒達に一言。
「喋る人は建物から離れてください!」
教室出ろなら分かるけど、建物から離れろってスケールでけぇな・・・。



地味に新コーナー? 気紛れですんで、続くかは知りません。
で、1週間が始まりましたね。暑いですね。梅雨って割には雨降りませんね。
まぁ今週末から雨らしいですが、また水不足とかになりそうで恐いな〜・・・。
あ、全く関係ありませんが、「とらドラ!」面白いよ、「とらドラ!」。

  • 題名未定(第13回)

参考文献などの写真が散りばめられたそのページを読み終えた義和は、顔を上げて花蓮の言葉を待つ。
花蓮は義和が読み終えたのを確認し、口を開いた。
「そこに書いてある通り、学域設立以前、この地域一帯は不吉な事が起こる土地だったけど、人々が近づかなくなってそれは沈静化していた。でもそれは、学域がここに設立される為に、再び人が出入りするようになって再発するの。えっと――ここね」
花蓮は身を乗り出し、義和の手元の歴史年表に手を伸ばす。そしてパラパラっとページをめくって、目的のページを開いた。
義和はまた、そのページに目を落とす。
――初代理事長、鐘平由継を中心とした学域設立委員会により、現在我らが学域の存在するこの地に、学校施設の建設がはじまった。
当初順調に見えた建設工事だったが、土地の整地中に地盤沈下が発生。死傷者48名、行方不明者3名に及ぶ大事故となった。だが作業は続行され、沈下した場所を含め、整地は完了した。
そして校舎や新風学園のシンボル時計塔図書館、アトリシア女学院のシンボル大鐘楼教会、理事長館の建設がはじまった。これらの建物は、当時来日していた著名な建築家、ミュセル・ゴートラント氏の手により設計、監督がなされた。
しかし建築も難を極めた。原因は不明だが、3分の1が完成していた時計塔が崩落したり、火事などによって資材が焼失したりしたのである。
これらはやはり忌み地による物だと噂が立ち始めた頃、委員会は御祓いなどを行ったとされる。
その後は小さな事件は起こったものの、それまでの大規模な物は起こらなくなり、無事大正3年に建物が完成し、学域は完成した。しかしこの時点では、製作が間に合わなかったらしく、時計塔の大時計、大鐘楼の大鐘は取り付けられていなかった。
それから多数の手続きを経て、大正5年に開校、と手筈が整った。
しかし大正4年、遂に大時計と大鐘が取り付けられて試験作動が行われた時、大鐘の作動を間近で確かめていたゴートラント氏が転落死してしまうという事故が起こってしまった。
これら多数の犠牲や事故により、この学域は設立されたのである――。